●DAHLEM nach HIROSHIMA-0
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ダーレム から ヒロシマ へ
そして世界へ
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核廃絶への願いを込めて
外 林 秀 人 外 山 茂 樹
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まえがき 第1章 1945年8月6日 あの日の出来事 (1.1) B29爆撃機「エノラゲイ」広島へ向けて出陣 ― そして赤いボタンは押された 第2章 いかにして原子爆弾は生まれたか ― 「ドイツの原子力物語」より |
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序 章
○被爆体験を語り継ぐことの躊躇いから責務へ
■この本の題名に掲げられている“ダーレム”。それは20世紀の始めに、ベルリン市郊外に出現した研究学園都市の地名である。そこで、あの原子爆弾という想像をはるかに超えた破壊力をもたらす核分裂反応が発見された。1938年12月のことであった。それから原子爆弾となってヒロシマを襲ったのは、わずか6年半の後であった。忘れ得ぬ1945年8月6日。
■その50年後の1995年に、ドイツのジャーナリストでノンフィクション作家のペーター・アウアが「ダーレムからヒロシマへ」という本を出版した。副題は「原子爆弾の歴史」となっている。
■この本をダーレムの研究所で手にした、一人の科学者S君がいた。この本の著者外林秀人である。S君は1945年8月6日の「その時」、広島にいた。爆心地から1.5キロメートル離れた広島高等師範学校付属中学の3年生で、化学の授業を受けていた。校舎は吹っ飛び下敷きとなったが、ほぼ無傷のまま這い出した。幸運にも今日まで生きながらえたが、そのことに触れるのを避けてきた。その間、京都大学で学び化学者の道へと進んだ。そして1957年にフンボルト財団の留学生としてこのダーレムの地にやってきた。爾来この地で教職と研究に従事して暮らしてきた。S君がアウアの著書「ダーレムからヒロシマへ」を手にしたのは、静かに定年を迎えた頃であった。
■それまで、S君は広島での被爆体験を公の場で語ることはなかった。「その時」のことを思い出すことを拒み、目を向けることを避け続けた。それはトラウマという一つの言葉で片付けられるような単純なものではない。体験しない者の想像を超えた拒絶感が住みついていた。しかし、広島で被爆してから50年、S君がこの「ダーレムからヒロシマへ」という本を手にしたとき、これまで閉じ込めていた巨大なものを、さりげなく放出する糸口を見つけたという思いが宿った。そうだ、この本を翻訳して日本で出版しよう。それによって広島からこのダーレムにやってきて、化学者としてライフワークを全うした証にしよう。それは閉じ込められた被爆体験への鎮魂である。
■それから、この336ページに及ぶ長編の翻訳がこつこつと続けられた。しかし、出版への道のりは平坦ではなかった。出版を引き受けることになっていた会社が、経営者の交代で暗礁に乗り上げてしまった。
■そこでめぐり合ったのがもう一人の著者外山茂樹、T君であるである。S君と同年代で名古屋大学を退官し、法人の技術協会で国際標準の仕事に関係してベルリンを訪れていた。T君の研究者としての振り出しは通産省の化学技術研究所であった。ウランの精錬をはじめ資源・環境問題に関連したいくつかのナショナル・プロジェクトに参画して、科学技術と国家の関わりについて、歴史的な変遷に着目した所論を展開していた。
■その化学技術研究所の前身の一つである臨時窒素研究所は、このダーレムの地とつながりをもっていた。第一次世界大戦が始まる少し前の1912年、ダーレムに設立された物理化学・電気化学研究所において、空気中の窒素からアンモニアを合成する技術が開発されたのである。それまで窒素は硝石とよばれる鉱石から生成していた。火薬の主成分であるニトロベンゼンは、窒素が含まれているので、硝石を産出しないドイツは、貿易を封鎖すればほどなく火薬が底をつき、戦いは続けられなくなるであろうと見られていた。しかし、どこにでもある空気中の窒素からアンモニアを合成して、火薬を作り続けることを可能にしていたのである。
■この功績により、フリッツ・ハーバーは第一次世界大戦が終わった年にノーベル化学賞を受賞している。ちなみに、核分裂反応を発見したオット・ハーンは、第二次世界大戦が終わる前年度のノーベル化学賞の受賞者になっている。それはさておき、敗戦国となったドイツは、アンモニア合成に関する特許は、賠償のような形で権利が奪われ、誰が使ってもよいということになった。
■そこに目を付けたのが日本であった。アンモニアは酸化して硝酸にすれば、ベンゼンと化合してニトロベンゼンという火薬を作ることができる。また、硫酸と中和させると硫安という肥料を作ることができる。明治維新以来、産業を奨励して富国強兵を目指していた国にとっては、アンモニア合成は一石二鳥の技術であった。維新以来といえば加えてまた、それまでひたすら欧米の文物を学び模倣することに終始していた日本にとって、独自の技術を開発しようという機運にあった。ダーレムの研究所の理念にならって、理化学研究所が設立されたのもその頃であった。
■またS君の過ごしたダーレムの研究所の建物はフリッツ・ハーバー会館と呼ばれており、核分裂反応が発見されたオット・ハーン会館とよばれる建物はその隣にある。
■S君とT君は協議してこうした日独交流の資料を加え、その代わり原著の題材をかなり削除して原稿を編集した。この出版に総合工学出版会の宇田川嘉久代表の賛同をえて、「ドイツの原子力物語」という本が2003年8月6日の日付で上梓された。
この本は
第1章 ダーレムの3人の科学者
第2章 本拠ヨーロッパとアメリカに渡った科学者
第3章 ロスアラモス/ポツダム/ヒロシマ・ナガサキ
第4章 核分裂発見の栄誉と波紋
第5章 21世紀のシナリオ
という5つの章からできている。この中でT君はS君に、第3章へ「キノコ雲の下で」という節を設けて、自らの体験を書くことを奨めた。S君は悩んだ末、4ページほどの原稿を書き上げた。T君はその原稿を読んで、初めてS君が被爆範囲の真只中にいて、その凄惨な有り様を目の当たりしたことを知ったのである。そして被爆体験を語ることの扉の重さを改めて思いやった。
■当時中学3年生のT君にもその日があった。それは一日後の1945年8月7日、勤労動員先の豊川海軍工廠でB29爆撃機による集中爆撃を受けている。しかしT君はS君の話を聞いて、通常爆弾と原子爆弾の違いは、前者がニュートン力学の三次元空間のスポットであるのに対して、後者はアインシュタインの四次元的時空全面に及ぶものであると理解した。これでは何のことか分からないかも知れない。しかし肝心なところである。後でまた機会をとらえて、丁寧にお話することにしよう。
■出版から2年後の2005年、名古屋では地球環境をテーマに愛知万国博覧会が開催された。またこの年は原爆投下60周年にあたるということで、T君によって描かれた「ドイツの原子力物語」の挿絵を中心に、名古屋大学博物館で「核分裂絵巻展」が開催された。期間は60年後のあの日2005年8月6日から、愛知万国博覧会が終了する10月7日までの2か月であった。この間に展示会を盛り上げるために、次の4つの講演会が催された。
○「核物理学の歴史と人類生き残りに果たすべき科学者の役割」
ハンス‐ペーター・デュール(ミュンヘン大学名誉教授)
○「絵で見るやさしい核分裂物語」
外山茂樹(名古屋大学名誉教授)
○「核分裂:手探り時代の逸話と関連する推測」
仁科浩一郎(名古屋大学名誉教授)
○「広島で原爆体験そしてドイツから学ぶこと」
外林秀人(元ベルリン工科大学教授、元マックスプランク研究所教授)
■展示会の最終日に行われたS君の講演には、広島で同じように被爆した中学校の同級生も駆けつけ、60年ぶりの再会を果たした。そしてS君はここで実に初めて、公式に自らの被爆体験を語った。それはむしろ言葉少なで、ドイツに学ぶこととして日本はもっと戦争責任を明確にすべきことを強く訴えるものであった。
○ヨーロッパでの被爆体験講演会とその反響
■それからドイツに戻ると、S君はいろいろな団体から声をかけられ、自らの被爆体験を語り始めた。
まず、S君が評議員をしているベルリン日独センタ−で、「広島の原爆」の夕べを、2007年11月1日にベルリン日独協会と将来研究-技術評価の研究所の共催で行った。センターの一番大きな部屋(定員200名)がほぼ満席になり、18時から時間切れの3時間の21時まで熱心に討論が行われた。その模様はベルリンの新聞"Berliner
Zeitung"や"Tageszeitung
(Taz)"がインタービューを掲載、それからベルリン-ブランデンブルグ放送がこれについて5分間の放送があった。ドイツの新聞を見て日本の新聞が興味を持ち、共同通信、東京新聞、毎日新聞からインタビューを受けた。
■それから、11月7日にベルリン工科大学で講義を行った。ここでは2004年からオイゲン・アイヒホルン教授が広島・長崎平和学習コ−スを開講し、毎水曜日にいろいろなテ−マ−で講義を行っている。11月7日のテ−マ−は「被爆者」であるS君に話をするように依頼があり、体験談を話すことになった。午後3時頃、約30人の男女の学生が集まっていた。1週間前に200人の前で話した時と違い、直接顔を見て話をするので、反応がよくわかり、話を加減できた。爆心から1500メ−トル離れた地点で被爆して、未だ生きていること、さらに被爆者がいろいろな面で疎外されていることが、彼らに新しい知見であったようだ。
■2008年2月14日には、ハノーファー・ヒロシマ姉妹都市提携25周年に関連してハノーファー市、独日協会ハノーファー、ハノーファー日本人会の共催で姉妹都市契約式典が行われた。ヴァイル市長自身が、挨拶から最後の議論までの2時間にわたり在席され、25年前のシュマールシュテク市長も、夫妻で出席され挨拶を交わした。ハンブルグから日本領事館の人も来られ、来場者は200人を数え超満員であった。
■スイスのチューリッヒでは、「生き証人達のフォーラム:無関心と忘却に抗し」という題で招待講演を行った。
■日本の中国新聞には平和市長会議2000都市突破の記事が報道されていたが、日本の加盟都市は広島と長崎だけである。ドイツは308の都市が加盟していて、ドイツ各地の独日協会からS君は講演依頼を受けるようになった。
■2008年の4月8、9日には、ハンブルグの南50kmにあるリューネベルグ(人口:7万)の独日協会の招待で2回講演を行った。会は19時30分から始まり、2時間経っても質問、討論が続き、バーゲル会長のストップでようやく会を終了した。80人ほどの聴衆で満席となり、土地の新聞も好意的な記事を掲載した。
講演会場 聴講者に囲まれたS君
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■翌日の9日午前10時から、ゲバール会長の娘さんが在学 しているリューネベルグ の高等学校の大講堂で、16〜18歳の生徒300人に話をした。みんな緊張して、静粛に話を聞いてくれたあと、生徒20人位 が壇上に上がり、各自が反戦、平和を祈念するスローガンを叫び非常に印象的であった。後日先生からメールがあり、生徒達 は相当なショックだったようで、校内新聞の記事を賑わせたとのことであった。
■オランダからは「日蘭対話の会」の星野文則氏から依頼を受けた。この会はオランダで年に一回太平洋戦争を考え平和を願う活動を行っており、一環として講演が行われた。
■その他いろいろなところで講演を行うようになった。現在までの実績を章末の表にまとめた。S君の原爆体験を語る行脚はこれからも続きそうである。巨大な躊躇いの扉の中に閉じ込められていたものが、こうしてヒロシマ・ナガサキ追悼への、生き残った者の責務として、次第にS君を駆り立てるようになった。お話として定着していった内容は第1章で紹介している。
○ポツダムにヒロシマ広場
■S君の講演活動はまたウウェ・フリードリッヒ氏が同時並行的に進めるプロジェクトが支えている。それは緑の党主体の「ポツダム90年連合」が担ってきた反核運動である。
■第二次世界大戦の戦後処理を話し合うために開催されたポツダム会談に際し、米国のトル-マン大統領が滞在していた邸宅前の広場を“ヒロシマ広場”と命名することが、ポツダム市議会で2005年に決議された。この時、トル-マン大統領が滞在していた邸宅から、原爆投下の命令が出されたことに由来したものである。そのときの情況は、この本の基になっている「ドイツの原子力物語」にも詳しく記述されているが、第2章でも紹介する。いずれにしても、その史実を記録した記念碑をヒロシマ広場に建てるための募金運動が、2006年の夏から行われている。2007年には、「ポツダム・ヒロシマ広場を作る会」が設立された。S君の講演会も、この運動に協力して募金活動を行っている。記念碑を中心とする広場は、2010年に完成する。
■フリードリッヒ氏は、ドイツのナチス時代を反省するために、「記憶文化」によって次世代に伝える運動を進めている。最近はベルリンの壁すら知らない世代が増えていると杞憂している。S君の語り部活動を知り、「ヒロシマの記憶」も貴重であると感じた。「ポツダムが原爆の歴史と深くかかわっていたことを知らせたい。ここはドイツの爆心地なのだ」として、車体に「ピカドン」と書かれた市電をポツダムで走らせるプロジェクトを立ち上げた。
こうした動きの中で本書はヒロシマで被爆を体験し、科学者としてダーレムで過ごしたS君の核廃絶への思いをこめて編集したものである。
トルーマン大統領が滞在した邸宅
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第1章 1945年8月6日:あの日の出来事
(1.1) B29「エノラゲイ」広島へ向けて出陣 そして赤いボタンは押された
■1945年8月、マリアナ諸島テニアン島には当時世界で最も大きい飛行場があった。6つの滑走路を持ち、その1つは5500メ−トルという並外れた長いものであった。空の要塞と呼ばれた爆撃機B29が、ものすごく重い荷物を搭載して離陸するということで、特別に建設されたものである。その荷物を搭載する日を決めるのは気象学者であった。
■8月5日、マリアナ時間の1時00分に出された気象予報によると、次の24時間は雲のない晴天で、作戦実行に最適の条件となった。大統領の命令によると、国際法上正しく「陸上戦争の秩序」に順応するように命令されていた。前線司令官カ−ル・スパ−ツや太平洋連合艦隊司令長官チエスター・ニミツ、それから爆撃隊長パオル・ティベツトといった人達は、「作戦」が始まることを今や意識した。これは前線命令13号と呼ばれ、グワムの第20空軍司令本部から出された。その文面は 「第20空軍隊は、8月6日に日本の目的地を攻撃せよ。目的地は広島市の軍事施設。」
■冷蔵庫に保管されていた荷物は、特殊な運搬車で滑走路に運び出され、滑車で飛行機の胴体に取り付けられた。この黒光りしている荷物を、ここでは「リトルボーイ(小さい少年)」と呼んでいた。22時00分に命令が出された。
■飛行機の胴体の両側にハッキリと米軍機の国籍表示マークが識別された。さらに左舷の垂直尾翼の方向舵には、黒いRの大きな文字が黒丸の中に書かれていた。
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■7個のガラス窓の下前方に、2つの単語が書いてあり、それがこの飛行機の名前であった。「エノラ・ゲイ」とある。このエノラ・ゲイの爆弾投下口には、約4トンの重さがある黒い不気味な金属体の荷物が装備されていた。それはウラン爆弾であった。世界で最初に投下される原子爆弾である。5500メートルの長い滑走路を助走した後、その先端でティベツトは飛行機を安全に上昇させた。そして黒い鳥のように北西に向けて大西洋の夜の空に消えていった。
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エノラ・ゲイは一切無線信号を発信しなかった。海上千マイル以上の距離を飛行した後に、爆撃機の乗組員は主目的地の陸地を認めた。8月6日広島時間で7時30分。テニアン時間で8時30分。爆弾はその間に、ウィリアム・パーソンズによって投下のための準備が進められた。やがて彼は自分の席に戻り、「爆弾の安全プラグを外しました」と報告した。ティベットは頷いた。もう後30分......。
広島の天気は良好、気温27度、湿度80%、風は陸地より海に向けて秒速1.2メートル。ただし、経験によると数分の内に突然風向きが逆になることもある。目に付く物はなにもなかった。空中は全く静かで対空砲火もなく、日の丸を付けた戦闘機も上昇して来なかった。
広島時間で8時11分に、エノラ・ゲイは予定された点の上を飛行しており、機長は「投下準備完了」の報告を待っていた。 ルイスは「投下準備完了」と叫んだ。フェレビ−は爆撃照準器の上に屈みこんでいた。高度31600フィ−ト。すべては計画通りに進んでいた。ティベツトはストップウォッチを眺めた。エノラ・ゲイのテニアン時間は9時14分であった。ティベツトは向こう側のフェレビ−少佐を眺めた。彼は標的を照準器の細い十字線の交差点に合わせていた。フェレビ−は「よし」と言った。チベツトは「ゴー(発進)」と命令を出した。
フェレビ−は赤いボタンを押した。赤いボタン。それはまさにボタン戦争の集約点、巨大なシンボルであった。
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それから最早43秒が残るだけだ。広島時間8時15分、正確に言えば8時15分17秒に、580メ−トルの高度で原子爆弾は炸裂した。
1945年8月6日。ルイスは飛行日記を担当していた。真夜中、初めて日記帳を開き3頁にわたって書き込んだ。「・・・・神様 私は一体なにをしてしまったのであろうか。・・・・・私はこれから100年生きたとしても、この数分の出来事を決して忘れることはできない。・・・・」
エノラ・ゲイより約4マイル南を飛行していた別の2機からは、それぞれの投下口から3つの箱が投下され、落下傘でゆっくりと落下していった。その中には、B29に同乗している科学者のための計測器が入っていた。物理学者フレド・アルバレツとベルンハルド・ワルドマン、助手のロ−レンス・ジョンストンとハロルド・アグニュ−で、彼らは飛行中、聖書を読み続けていた。
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(1.2)キノコ雲の下で
1)“ピカ ドン)”
S君は当時16才の中学生で、広島高等師範学校に設けられていた特殊学級に通い、工場の勤労奉仕を免除され学習に従事していた。8月6日の8時から、24名の学生が2階の角の部屋で化学の授業を受けていた。校舎は爆心地より南1.5キロメートルに位置した木造の建物であった。
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その瞬間、突然ピカっと巨大な写真のフラッシュのような光が目を貫き、ドカンという音を耳にしたとき、建物が崩壊したらしい。何がなんだか分からないままS君が気がつくと、上の方から光がさしており、障害物を取り除くと自力で這い出すことができた。建物は吹っ飛び、方々から火の手が上がっていた。
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友人K君が負傷して閉じ込められ、助けを求めているのが見えた。S君は出口を塞いでいる材木を懸命に除き、K君を助け出した。そのうちに火が広がり、早く逃げないと火に巻き込まれてしまいそうになった。誰か下の方から助けを求める声が聞こえていたが、もはやどうにもならず負傷したK君を連れて逃げた。
K君は、片耳が切れて垂れ下がっていたが、歩くことはできた。そこから川を2つ越えた所に舟入の自宅があるので、その方向に避難しようと考えた。橋が燃えていて渡れないので、小舟を探しそれにK君を乗せ、S君はそれを押しながら泳ぎ2つの川を渡った。舟入の南の江波に診療所があることを聞き、K君をそこに連れて行った。K君は姫路の出身で、それから自宅に帰り死亡したと聞いている。
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2)舟入の自宅
爆心地より南2キロメートルの所にある舟入に、木造建ての自宅があった。“ピカ”で干してあった布団に火がついたが、父が在宅しており直ぐ消火したので、家の全焼は免れた。母は町内の勤労奉仕の日で、町の中心部の建物を防火のため取り除く作業に早朝から出ていた。